古典文明

黒いアテナ


『黒いアテナ』
Black Atena:The Afroasiatic Roots of Classical Civilization
(1987:邦訳金井和子訳藤原書店2004刊)

Martin BERNALマーティン・バナール
1937~コーネル大学名教授
その第1巻の副題は「古代ギリシアの偽造 1785年―1985年」

2012-07-25藤原書店から、「『黒いアテナ』批判に答える (上) 」Black Athena Writes Backが出ましたので、「(一時期話題になったけど多分読むのは時間の無駄…)」とか「とんでも本」などとありますが、・・少々吟味・・
==以下引用===========
ギリシア文明がエジプト・フェニキア等アフロ・アジアから大きな影響を受けて発展したことを、文書的・言語学的・考古学的に示した『黒いアテナ』(全3巻)。近代の人種差別的・過剰な科学主義的〈アーリア・モデル〉によって駆逐された考えを復活・発展させたこの問題作は、激しい批判を受けた。
==以上引用=========== amazonの書評に「最優秀序文賞があったら、これが該当作 」(2006年というので、オススメの『黒いアテナ(2〔上〕)』138ページまでは読みますね。その前に検索。
検索
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007.05.23
[書評]嘘だらけのヨーロッパ製世界史(岸田秀)
「バナール説については、普通の知識人なら知っておくべきなので、それがチートシート的に読める」
「古代ギリシア文明はエジプトの黒人による文化だ、それを近代西洋が無理に近代西洋幻想に結合してしまったという話」※
「古典文明のアフロ・アジア的ルーツ」

ギリシア文明の起源と古代エジプトの役割

小田実(2004年6月1日)http://fujiwara-shoten.co.jp/

ドイツを中心とした「ヨーロッパ、西洋」の歴史の「偽造」

柄谷行人(2006.1.29)http://www.kojinkaratani.com/

古代のギリシャ人は、ギリシャ文明がエジプトとフェニキアに基づくと考えていた。ところが、ギリシャ文明が征服者アーリア人に由来する独自のものという説が、一八世紀末にドイツを中心に西欧で広がり、最近まで支配的だった。そのような〈アーリア・モデル〉を著者は西洋中心主義、人種差別として批判し、〈古代モデル〉に戻るべきだと主張


me※私が今回読んだ (第2巻の序だけを読む)限りでは、エジプト「の」黒人というセリフはないようだ。

しかし、タイトルは「黒いアテナ」である(-_-;。・・が、それにしても、人類の起源はアフリカであることは定説になっている。内容は、ギリシャ文明がアーリア人に由来する独自のものという説の否定といえば、全然間違っていないのではないか「と思われる」。古代ギリシアなど、人類全体の歴史からみれば、全然近い時代にすぎない。
「ネグロイドは野蛮人の集団で、コーカソイドは世界の文明を支えてきた存在とする、白白人至上主義」(の否定)というのは、、 Wikipedia「人種」にあるように、「非合理的かつ恣意的な分類概念」となったというのはめでたい

現在多くの自然人類学者や遺伝学者は人種という概念を使わない。それは人種概念自体が近代西洋の価値観に根ざしていることが暴露されたからであり、また学術的にも文化的な区分、つまり民族に対してその民族がどんな形態学的あるいは遺伝学的な特徴を持っているのかというトートロジカルな議論に落ち着いてしまい、自然科学的な問題になりにくい。
約25万年前以降に出アフリカを果たした人類が、距離や山脈など地理的障壁によって遺伝子流動が制限された結果、異なる遺伝的特徴を持った集団が成立したとされる。


おまけ:エジプト考古最高評議会のザヒ・ハワス(Zahi Hawass) 「エジプトはアフリカ大陸にあるが、エジプト人はアラブ人でもアフリカ人でもない」




『黒いアテナ(2〔上〕)』序を読む

p53-138の要約

p53
古代ギリシアの起源についての二つの考え

1.ギリシアには当初ペラスギ人やその他の未開種族が住んでいた(=<古代モデル>)
ペラスギ人たちを文明化したのは、「英雄時代」にギリシアの多くの地域を支配したエジプトやフェニキアの植民者


2.ギリシア文明は、北方から北インドーヨーロッパ語を話す、初期の「前ギリシア」人による征服の結果生まれた混合文化(=<アーリアモデル>) 5世紀に流布した<古代モデル>は18世紀まで残っていたが、19世紀初めに放棄され、1840年代に、<ア―リア・モデル>がとって代わった。


<アーリアモデル>は<改訂版古代モデル>に代わられるべき
エジプト人とフェニキア人の入植が古代ギリシアに大きな影響をあたえたと認める一方、ギリシア語が基本的にインド・ヨーロッパ語であるという疑う余地のない事実も考慮し、最近の考古学による様々な年代修正も盛り込む

p53
<アーリアモデル>の概念には過ちや誤謬がある。しかし無効になるわけではない
その動機の多くが同じように「不名誉な」ダーウィニズムは、大変役に立つ発見的体系として残ってきた。
(マルサス主義(Wikipedia)の影響) p54
<アーリア・モデル>の本来的な優越性を問う
<アーリア・モデル>より<改訂版古代モデル>の方がギリシア文明の発展と本質を説明できる

エーゲ海地域の青銅器時代への接近方法
古典学者R・A・マクニ―ル(1972)に対する考えに対して、
私(バナール)は 線文字Aと線文字B の<文書情報>が第一に重要
<確実性>ではなく<妥当性>を競う 
※R・A・McNeil・・不明
p57<古代モデル>が存在したこと
ルース・エドワーズ『フェニキア人カドモス━ギリシアの伝説とミュケナイ時代の研究』
アルカイック時代(紀元前776年―500年)や幾何学文様陶器時代(紀元前950~776年) p62私たちの関心は
青銅器時代のエーゲ海地域の対するエジプトとフェニキアの影響のタイプ・範囲・期間

古典学研究と政治的イデオロギーとの関係
少なくとも部分的には<アーリアモデル>をはぐくんだのはヨーロッパ中心主義と人種差別だった

p59 フィラウィウス・ヨセフス(紀元1世紀のユダヤの政治家歴史家)
ギリシア人と接触した民族の中で・・・・・・最も多くの文字による記述を利用したのはフェニキア人であった。

p66 科学史家トーマス・ク―ン Thomas Kuhnの図式 パラダイム<専門母体>(ディシプリナリ―マトリクス)

http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Kuhn
Wikipedia: 科学革命の構造  (The Structure of Scientific Revolutions 1962)「科学 史の進歩を見直す立場から、科学において一定の期間にわたって研究者たちに モデルとなる問題、解法を提供する承認された科学的業績 を意味するパラダイムの概念を用い分析。後の科学史とは研究の蓄積による曲線的な進歩ではなく、パラダイム転換(パラダイムシフト)による段階的な過程として捉えなおすことができる」
 
※なるほど、人文学のパラダイムシフトのように考えたのですね
この「暗黒時代」のあたりで「リーグル美術様式論」(クレタの陶器)読書、足踏みしています。 
p62「幾何学文様陶器時代」 「陶器による正確な年代決定」
p62「暗黒時代」は不適切な名称

p69テーマは 青銅器時代のギリシアとギリシア以外の東地中海地域とギリシアとの関係
情報源は考古学と当時の文書の二つ
(以下12章の要約)


古代の東地中海地域
地図資料ページより引用


第1章の要約

p69 紀元前2100年のクレタ島・・大陸間のもっとも重要な「橋」
新石器時代にエーゲ海地域周辺でもっとも繁栄したのはギリシア北部の小麦を生産する広大な平原
(クレタ島は比較的重要ではなかった)
紀元前3000年より少し前からの青銅器時代
南エーゲ海の沿岸地域と島々の発展
発展する地域が北から南に転換したのは、
1.東方から新たに導入された「地中海性」作物、ブドウとオリーブがもたらされたからという説
2.海運業の進歩と貿易説
この時期のクレタ島に冶金の新技術と新様式の陶器が登場した問題
紀元前第3千年紀以降のクレタ島にはレヴァント系ばかりでなくエジプト系の遺物や芸術モチーフも発見される
 
p70 フェミニストの考古学者ルーシー・グッディソンLucy Goodison(※)は、 クレタ島人の神が地下に棲む地母神であるという考えを攻撃
太陽が女性だったことを図像学から論証した。19世紀と20世紀の学者たちは、非アーリア人の間で崇拝されたのは地母神のイメージだったという考えを好んだ
(エジプトでは、太陽は男性であるが、天空は女性、大地は男性)
クレタ島とエジプトの宗教との並行関係を指摘
クレタ神話では太陽は船に乗って天空を航行、また嘆き悲しむ二人の女性が登場する。
この女たちはエジプト神話に出てくるオシリスの死を悼むイシスとネフティスという二人の女神に似ているように思われる
ギリシア文化に「オリエント」の影響があったこと
 

http://en.wikipedia.org/wiki/Lucy_Goodisonの著書Moving Heaven and Earth: Sexuality, Spirituality and Social Change (1990)
me※ 「地母神」という言葉を何のひっかかりもなく使ってきたが、例の女性上位のアダムの初めの妻など思い出される。


p71 「非インド=ヨーロッパ語を話すが、ヨーロッパ系で白人種だった前ギリシア人は、ギリシア文化に対するアフリカとユダヤの文化的影響を浄化するフィルターの役割を果たした」考古学者ゴードン・チャイルド
※Wikipedia20世紀最大の先史学者ゴードン・チャイルド(Vere Gordon Childe 1892 - 1957)
「前ギリシア人」・・?・・
Wikipedia:コリン・レンフルー(レンフリュー(新考古学)のリーダーの一人・・下の休憩に続く

p71 ケンブリッジ大学の考古学者コリン・レンフルーColin Renfrew(※)は紀元前3千年紀のエーゲ海地域の解釈では最も影響力のある人物
ギリシア文化の源流については<現地起源モデル>を主張する※
ギリシアに東方からの影響を受けない子ども時代があり、その後の基本的特徴が決定された、という
インド=ヨーロッパ語はギリシアばかりでなくヨーロッパ全体にも、農業と共にやってきたという


第2章の要約

p73ボイオティア地方(ギリシア中央部)
青銅器時代の水路やトンネルの精巧さ、階段状の人工的な墳丘、当時エジプトの影響があった可能性は高い 
ボイオティア地方とエジプトの神話と祭儀に見られる並行関係
コパイス湖南岸のアテナ神の祭儀は重要。この祭儀の源流はエジプト神話の水をつかさどる神、ネイトの祭儀に行きつく
(ネイトはナイルのデルタ地帯を遊弋する牝牛。やがて聖なる都となるサイスに定住したという)
ギリシア神話に登場するテーバイを建設したカドモスは、雌牛の後についていき、牝牛の休んだところに町を建設したとされている
カドモスはそこで牝牛をいけにえとしてアテナ神祭儀を定めた
女神の名はエピクレスすすなわち異名はオンカまたはオンガ
(オンカはヘレニズム時代のギリシア人にはアヌキスとしてしられたエジプトの滝の女神の名に由来することはほぼ確実)
p74アルクノメ考察(テーバイの最も偉大な半神ヘラクレスを生んだ)
ヘラクレスの起源が、人間と同時に神であるというエジプトの<神なるファラオ>に求められるという可能性
ギリシアの著述家エウヘメロス(紀元前300年ごろ)は<神のモデルは人間である>と考えた
現代的意味での「エウヘメリズム」(euhemerism)(神を歴史的人物に変える)とは正反対

Wikipedia:ボイオ(-)ティアBoeotia地方

「ギリシア神話において、ボイオーティアは重要な役を演じている。軍事的拠点として、カドモスが建国した軍事的拠点テーバイ、進取的な商業都市として、ミニュアース人 (Minyans) の住むオルコメノス(英語版)という伝説の2つの中心地を持っていた。」



(巻末用語より)
「宗教信仰を合理的な言葉で説明し貶めるために用いられた」


第3章の要約

p75ボイオティア地方の神話と近東の神話との間に見られる詳細で複雑な並行関係
大部分は青銅器時代までさかのぼる
テ―バイの建設者とみなされるアムピオンとその双生児の弟ゼトスの墳墓(「ピラミッド」)
陶器年代区分では、初期ヘラドス文化第Ⅱ期のもの(EHⅡ期 紀元前3000年から紀元前2400年) ホメロスは、彼らはカドモスより先に来たと主張
コパイス湖北岸オルコメノスのルンドバウ(円形建築物)、エジプトの穀物倉庫とそっくり
巨大なダム、排水と灌漑設備
レルネで発見の「瓦屋根の館」
ギリシアの川の名前で最も頻繁に使われる言葉の一つはケピソス。エジプト語に由来すると考える
オルコメノスという地名は線文字Bの粘土板にも見出される
「整えられた」「囲まれた」場所
p80 EHⅡ期のギリシアには洗練された社会と経済があり、その多くの遺物の特徴はエジプト的であった

第4章の要約

p81 紀元前第3千年紀末になると、クレタ島の発展はギリシア本土とはまったく異なる形態をとるようになった。
紀元前24世紀の、 クレタの陶器年代区分EHⅡ末期以後とEMⅡ末期以後、 ギリシアでは没落があり、対照的にクレタ島では原宮殿時代と呼ばれる発展が見られた 
初期ミノア文化期のクレタ島は農耕社会
それが官僚の支配する適度な大きさを持つ宮殿社会に発展した原因は?
レンフルーと超ヨーロッパ主義者たちは本質的に内発的な発展だったと主張している
他方、エヴァンズ やその弟子ペンドルべリが注目するのは、EMⅡ末期の地層から発見されたレヴァントやエジプトの遺跡の数の多さと、冶金技術の変化や石器・陶器製の壺の意匠の変化が、レヴァントとエジプトの影響をそれぞれ反映している
p82クレタ島の宮殿社会の最も著しい特徴の一つは牡牛祭儀
紀元前7千年紀から紀元前2千年紀末までアナトリアにもエーゲ海地域にも牡牛祭儀の証拠が欠けている
牡牛祭儀のアナトリア起源という仮説の妥当性はゼロ
p83 エジプトでは先王朝時代より、牡牛と雄牛の角は祭儀上大きな意味をもっていた
最も有名なのは聖牛アピスの祭儀Mn(王朝創始者)
クレタの描かれたミノタウロスの像は、人間の身体に牡牛の頭をもつ・・エジプトの神々と同じ ヘリオポリスのムネヴィス(曲がりくねった壁の意)の祭儀・・クレタのラビュリントス
モンチュ祭儀(第11王朝)紀元前21世紀第11王朝がエジプトを再統一し、その勢力を外国に伸ばしながら牡牛祭儀を広めていた時期
基本的な平行関係はその時までさかのぼるようにおもわれる
p85考古学では、クレタ島の牡牛祭儀はエジプトのモンチュ祭儀が最盛期だったまさにその時に始まったとされており、基本的な並行関係はその時までさかのぼるように思われる。
p86紀元前三千年紀末がエジプトとクレタ島に一致が見られる時期だったと解釈するもう一つの理由は
エジプトで国家祭儀牡牛モンチュから牡羊アムンに代わったこと
エジプトの神々の中で、特に北部との占領地との関連でモンチュは依然として重要な神であり、クレタ島でも牡羊ザンすなわちゼウスが宗教的に非常に重要になってきた
他方、エジプトで牡牛祭儀が行われなくなったあともクレタ島では相変わらず牡牛祭儀が中心的祭儀であった
これは、 文化的中心地で失われたものが文化的周辺部に残るという一般的文化パターンに合致するように思える。
クレタ島の線宮殿時代から玄宮殿時代への「跳躍」は、少なくとも同時代の中東からの間接的な刺激の結果であり、 この地域でエジプトが再び覇権を主張したことがそれと関連していることは明らかである
エジプトは紀元前21世紀の南エーゲ海地域で、ある程度の宗主権をもっていた可能性がある

休憩
WikipediaColin Renfrewコーリン・レンフリューより
==以下引用===========

原印欧語族の「原郷」がアナトリアにあって農業の発展に伴い、まずギリシャへ移住してから徐々に拡大し、イタリア、シチリア、コルシカ、フランスの地中海岸、スペイン、ポルトガルにうつっていったという仮説(いわゆる「レンフリュー仮説」)によってその名を知られている
従来、比較言語学の分野などで提唱されてきた南ロシアにあるのではなく、トルコ中部のアナトリアにあるとする仮説


民族と言語を等記号で結ぶのは誤りであるとし、 同時に、従来ビーカー土器とコーデッド土器の分布から唱えられてきた諸説に対しても、新しい文化の出現は必ずしも新しい言語を話す集団の侵入を意味するものではないとして、土器型式を特定の言語グループと安易に結びつけることに批判を加えている。
し、また、考古学の立場からインド・ヨーロッパ祖語を話した集団とその拡散をもたらした歴史的背景を論じている

※黒海北岸・コーカサス北麓原郷説はいまでも主流

初期国家や文明のなかには、紀元前1110年以降のや890年以降の低地マヤ文明のように、外部からの侵略や征服によらずして消滅したと考えられるものがある。「暗黒時代」と呼ばれる現象がそれ

印欧語は紀元前3500年から3000年頃にヨーロッパに伝播したとするクルガン説、コーデッド土器説・ビーカー説(紀元前2900年-2000年頃)、火葬墓文化説(紀元前1500年以前の後期青銅器時代)のいずれも、全ヨーロッパにあてはめられるほどの広がりをもたないとかれは指摘する。

印欧語族が通説よりはるかに古い起源をもつ可能性を指摘し、その起源を従来よりも4000年以上さかのぼらせて、ゴードン・チャイルド(Gordon Childe)以来の「インド・ヨーロッパ問題」にひとつの解答を与えた

Wikipediミケーネ文明

紀元前1150年頃、突如勃興した海の民によって、ミケーネ、ティリンスが破壊され、ミケーネ文明は崩壊した。

エーゲ海先史文明と古代ギリシャ文明との間に存在していた『暗黒時代』が利用されることになった この暗黒時代を利用することにより、エーゲ海先史文明は『前1200年のカタストロフ』によって崩壊、白紙となった上で 暗黒時代に古代ギリシャ文明の基礎が新たに築かれたとしてこの矛盾は解消された。しかし、線文字Bが解読されたことにより、その矛盾は再び闇から蘇ることになった


内容(「BOOK」データベースより) ヨーロッパはどのように成立したのか。インド・ヨーロッパ語族が、通説よりはるかに古い起源をもつことを立証し、ヨーロッパ人の起源を4000年以上もさかのぼらせ、言語の系譜論に新しい視座を導入して、文明論の展開に画期的な地平を拓いた、問題の書。
印欧祖語の話者は、いつごろどこに出現したのか

5000~6000年前の黒海・カスピ海の北方に出現したという仮説がクルガン仮説である。これに対して、8000~9500年前のアナトリア(トルコ)に出現したという仮説がアナトリア仮説である。

第5章の要約

p86 第11王朝のファラオ、センウスレト「征服」(ヘロドトスの言うセソストリス)
セソストリスと彼の軍隊はアジアを超えづきたいからカフカスまで遠征地区ダイナ地域を征服した(ヘロドトス)
近代の学者にとって、文明化されたアフリカの軍隊が、南西アジアばかりでなく、ヨーロッパも征服したというのは受けいれがたいことであった
年表について。
エジプトの年表(王とその在位期間の一覧表)。。。有力な王朝と王朝の間には「中間期」が存在、重複
p91天文学の観測から得られた第12王朝の年代の放棄は気が進まない
古王国の年代・・・1980年代末 正しい年表は「長」年表で、アナトリアでの破壊はエジプトの軍事行動の結果であるという可能性が高まっている

※年表
 

第6章の要約

p94 セソストリス(第11王朝のファラオ、センウスレト)のカフカス「征服」について
黒海東岸の国コルキスの住民はセソストリス軍兵士の末裔(ヘロドトス)
紀元前2世紀の学者ロドスのアポロニウス「アルゴナウティカ-アルゴ船物語」魔法の船アルゴに乗り、コルキスまで金毛羊皮を探しに行く物語 近代の学者にとって、文明化されたアフリカの軍隊が、南西アジアばかりでなく、ヨーロッパも征服したというのは受けいらがたいことであった
p95エジプトの大征服者が通過したという伝承紀元前第2千年紀のレヴァント、フルり、アナトリアの雷神だったバァル、テシュプ、タルクワァンの肖像は間違いなく、エジプト中王国時代の<敵を打ちすえるファラオ像>の大きな影響がみられる
P97 人々が第12王朝の征服を記憶していたというもう一つの可能性はギリシア神話に登場する黒人の半神メムノン メムノン伝説が集中しているのは北西アナトリア

6章までの要約というか目次 は藤原書店のここにあり
「コルキスに黒人住民がいた証拠  形而上的地理 カシュとコルキス ―― エジプト語からの派生語か 議論の要約 ―― エジプトの植民地だったコルキス」

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第7章の要約

p99 クレタ島の北70マイルにある火山島、テラ島大噴火の年代修正の問題
エーゲ海地域の年代を画してきた陶器年代区分の時期が、従来考えられていたよりもさかのぼることになる
近東の影響の痕跡が見られた時代が早められ、文書情報によってテラ島と近東に密接な接触があったとされる時代と考古学が示す時代が同時期だったことになる
紀元前1628-1626だったと考える
テラ島の噴火が原因でクレタ島のミノア文明の支配が崩壊手ギリシア人のミュケナイ文明が勝利した(紀元前1450年)
p100 噴火の伝承・・1.『聖書』「出エジプト記」・イスラエル人がエジプトを脱出する現象・紅海が真っ二つに裂けそして閉じファラオの軍隊が飲み込まれて溺死する・・ 火山性津波がもたらした結果と似ている
2・プラトンの『ティマイオス』と『クリティアス』・・たアトランティスの滅亡(地震と洪水)
中国系アメリカ人ケヴィン・パング(気候学)・・夏の没落は紀元前17世紀、商(殷の別称)の没落は紀元前12世紀と考 えている
この年代修正で「枢軸時代」説の支柱の一つが失われる
「枢軸時代」説はギリシア人(ヨーロッパ人)が文明世界の始まりにいたという説・・この説はギリシア古典時代の文明の技術ばかりでなく、その精神と理性の基礎にもなったアジアとアフリカの偉大な青銅器文明を否定した
※ケヴィン・パング不明
Wikipedia:「枢軸時代」:ヤスパース「歴史の起原と目標
「枢軸時代」に対する有力な批判のひとつがイギリスの歴史家マーティン・バナールによるもの
※「枢軸時代」紀元前500年前後の数百年にわたって展開された

クレタ文明滅亡に関する教科書的な記述は? http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-1/crete-b.htmより以下引用

クレタ文明は、BC1450年ころ、突然に滅びた。(「朝日=タイムズ 世界考古学地図 人類の起源から産業革命まで」での年代) ギリシャ本土へ侵入してミケーネ文明の担い手となっていたギリシャ人によって滅ぼされたとする説と、クレタ島の北30キロにあるテラ島 Thira(サントリニ島 Santrini)の噴火による地震・津波・火山灰によるものとする説とがある。

第8章の要約

p105 北東からエジプトにやってきたヒクソス人について
(中王国末期にエジプトに侵入し少なくとも一世紀半以上もエジプトを支配)
ヒクソス人はフリル人、セム語を話す人々だったと考えられる


第9章の要約

p109 その後も続いたと考えられるヒクソスの攻勢について
ケンブリッジ大学のフランク・スタッビングズ:ヒクソスの王子がミュケナイの<竪穴墓シャフト・グレイブ>に埋葬されたと論じる、その主張を復活させる
〈古代モデル〉の第ニの「改訂」点・・ 〈古代モデル〉では、紀元前1570年ごろ、エジプトを追放されたフェニキア/エジプト系のヒクソス人がギリシアにやってきたとされるが、紀元前1730年ごろであった 〈古代モデル〉の第一の「改訂」点・・ギリシア語の基礎は北方からきた 」美術の分野の新しい様式・・「空中跳飛び」
この時期に導入された重要な二つのテーマ、翼のあるスフィンクスとグリフィン 発祥地はエジプト、期限前第18世紀に登場した翼のあるグリフィンはシリア型で特にヒクソスと結び付けられた 陶器年代区分の中期ミノア文化第Ⅲ期
その後の500年間「空中飛びのスタイル」で戦いや狩りをしているグリフィンが頻繁に描かれた
グリフィンは、 クレタ島ではクノッソス宮殿の玉座の側面に、ピュロスではミュケナイ文化時代の玉座の側面に刻まれる。したがってヒクソス王権のシンボルだった
テラ島の大噴火によって埋まった現在の悪路ティり遺跡・・青銅器時代のポンペイ
出土品・・コスモポリタン的性格、意外な折衷主義、「ヒクソス・インターナショナル的」
<竪穴墓>その他の初期ミュケナイ文明の墓に葬られている王族はシリアからの侵略者だったヒクソス人という仮説を喚起する
「ミュケナイ的」芸術様式と見ていたのは、<ヒクソス・インターナショナル>様式の名残と考えられる。

ギリシア語が成立した可能性が最も高いとされる紀元前1730年から1530年の数世紀間は、ギリシアが西セム語とエジプト語を話す人々に支配された時代であったと思われる。
※フランク・スタッビングズ・・不明

第10章の要約

同時代の文書に見られる証拠
青銅器時代に書かれたエーゲ海地域との接触についてのエジプトとレヴァント側の報告
地名でどこを意味していたか カフツ・・最も早い使用例は、遠隔地貿易のパートナーとして紀元前2450年━2100年の第一中間期に言及された
最も頻繁に使用されたのは第18王朝時代。王がファラオに贈り物
新王国時代に「ギリシア」を表すのに用いられたタナヤ、テネ、デニエンというグループ
ホメロスがギリシア人を表す時に最も頻繁に用いたダナオイ人と同語であることは間違いない
エーゲ海地域の青銅器時代の記録線文字A と線文字B・・これらの音節文字はクレタ島で使われていた
相当数のセム語の単語が含まれている(「すべての」「全体の」というような基本語も網羅している)
エジプト、レヴァント、エーゲ海地域の断片的な文書情報は、 少なくとも紀元前17世紀、青銅器時代の東地中海地域周辺で、かなりの接触と人種的な混合があったことを示す

第11章の要約

p121 後期のミュケナイ文明時代のギリシア
紀元前18世紀から12世紀まで長く存続し、かなりの文化的連続性があった)類似の芸術様式とモチーフ、とりわけスフィンクスとグリフィン
初期ミュケナイ人たちの関心は戦争
紀元前17世紀以降のテラ島の壁面装飾を見れば少なくともキクラデス諸島にはかなりの洗練された平和な社会があった
アーサー・エヴァンズ卿(Sir Arthur Evans)の断言・・クノッソス宮殿が破壊されたのは紀元前1380年頃
言語学者レナート・パーマー・・宮殿は紀元前13世紀末まで残っている
紀元前15世紀ごろにクレタ島で権力の移行があった。支配者交代を示すエジプト語の証拠・・Kftsという名称がつかわれなくなり、Tnjに 陶器ではわからない・・LMⅡ期の陶器は前代のLMIB期から発展し、LMⅢ期に引き継がれた

ミュケイナイの陶器は(ヒッタイトの支配する)中部アナトリア高原で発見されていない
<アカイア人>(ホメロスが多くの場合に<ギリシア人>を指して使った語)は中部アナトリア人の長年の敵
ぺロプス・・エジプト語の皇太子に由来すると考える・・ペロポネソス半島
ペロポネソスの子孫のアカイア人
エジプト人の支配と影響力が及んだ地域一帯で、LHⅢA期と LHⅢB期(紀元前1470年~1220年)のミュケナイ製陶器が大量に発見されている
ギリシアは金属類の大輸出国だった エジプトが小麦を輸出するパターンは、後期青銅器時代に確立していた
小麦や製パンに関するいくつかのギリシア語の語源がエジプト語らしい
※レナート・パーマー・・不明
Wikipedia アカイア人(言語学的な定義)

アカイア人または古代ギリシア語でアカイオイ(Achaioi)とは、紀元前2000年頃テッサリア方面から南下してペロポネソス半島一帯に定住したとされる古代ギリシアの集団。後に、その一部はイオニア人と呼ばれる様になった。 アカイオイの呼び名は、『イリアス』や『オデュッセイア』といったホメロスの叙事詩では、そこで描かれるギリシア人の総称として用いられている。ミケーネ文明を構成した集団と考えられており、ミノア文明を滅ぼした。アナトリア半島に勢力を持ったヒッタイト新王国時代の粘土板文書や、エジプトの碑文に、アヒヤワの名前で登場する。 その一部は後に南下してきたドーリア人に征服された。


第12章の要約

紀元前1250年から1150年の100年間のミュケナイ時代末期
ギリシアのテーバイとトロイの攻略と破壊
陶器年代区分が低年表で設定されている手間に、ここでも年代が混乱している
通説では陶器年代区分の高貴ヘラドス文化第Ⅲ期B(LHⅢB)と同第ⅢC期はそれぞれ紀元前1275年と1180年に始まった
テーバイの破壊はLHⅢB2期(通説ではBC1200年ごろ)
トロイアがあった地層 考古学上の候補地は二つ トロイア第Ⅳ市の破壊は通説より1世紀以上早い紀元前1350年と設定し直さねばならない
紀元前13世紀、ヒクソスの支配した王国で残ったのはテ―バイ王国だけになっていたことも疑う余地はない アッシリアによるバビロン征服の都市は紀元前1235年頃とされている(妥当)
ミュケナイ時代の終焉と青銅器時代文明の全体的滅亡について
紀元前12世紀に滅亡、その前兆がテーバーとトロイアの陥落だったと考えられる
ギリシアの混乱は紀元前1150年ごろ最も激しくなる
原因、北半球全体に影響を与えた気候の悪化、
パックス・アエギプティカ(エジプトの平和)の政治的崩壊だったと思われる
中国では州王による小の妥当大ブリテン島北西部で人口激減 エラム中王国崩壊 ギリシア宮殿社会滅亡 (これらは、ヘクラ火山噴火後の10年間に起きた事件)
しかし、エジプト、レヴァントは急速に回復した
他方近東周辺地域は長い時間がかかり、復興後は社会形態が一変した ギリシアは素朴な部族社会が官僚制の宮殿社会にとって代わった
P158 総じて、紀元前8世紀と9世紀の復興は、紀元前11世紀にフェニキアが確立した商業と製造業の盛んな都市国家という方向で進め、市民たちは奴隷の労働に依存しながら、強力な権利意識をもっていた。
違いを象徴的に言うなら、かって宮殿があったところに都市が生まれ、集団のアイデンティティを代表する神殿が都市を見下ろしていた。 

Wikipedia ギリシア文明の発祥 ギリシャの歴史
エーゲ文明 ヘラディック文明 キクラデス文明 ミノア文明 ミケーネ文明 古代ギリシア 暗黒時代 幾何学文様期 アルカイック期 (古典期) ヘレニズム ローマ帝国支配下のギリシャ ビザンツ帝国支配下のギリシャ ビザンツ帝国 分裂時代 トルコクラティア (オスマン帝国支配下のギリシャ) 近代ギリシャ ギリシャ独立戦争 (ギリシャ第一共和政) ギリシャ王国 ギリシャ第二共和政 八月四日体制 ギリシャ国 ギリシャ内戦 ギリシャ軍事政権 ギリシャ第三共和政 その他
紀元前2600年ころ、小アジアのトロイア周辺に青銅器文明を持つトロイア文明が栄え、紀元前2000年ころには線文字Aを持つミノア文明がクレタ島のクノッソスを中心に興る。さらに紀元前1500年ころに線文字Bを持つミケーネ文明がペロポネソス半島のミケーネ・ティリンスを中心に栄えた。ミケーネ文明の民族系統は判っていない。 その後、3派のギリシア人が北方から南下した。紀元前2000年ころイオニア人がエーゲ海北部や小アジア西岸に住み着き、紀元前1400年ころアカイア人がペロポネソス半島からエーゲ海に進出しミノア文明やミケーネ文明を滅ぼした。さらに紀元前1200年ころにドーリア人がペロポネソス半島北方から南下しアカイア人の領域に侵入した。

Wikipedia古代ギリシア 植民地主義の影響

古典古代の文明の基盤が水平的な市民社会であるとしていた古代ギリシャ史研究家の間では到底、受け入れられるものではなかった。そのため、エーゲ海先史文明と古代ギリシャ文明との間に存在していた『暗黒時代』が利用されることになった。 この暗黒時代を利用することにより、エーゲ海先史文明は『前1200年のカタストロフ』によって崩壊、白紙となった上で暗黒時代に古代ギリシャ文明の基礎が新たに築かれたとしてこの矛盾は解消された。しかし、線文字Bが解読されたことにより、その矛盾は再び闇から蘇ることになった

エーゲ海先史文明が古典期ギリシャの直接祖先ではないという暗黙の了解があったため、線文字Bはギリシア語ではないと考える研究者が大半であったが、1952年、マイケル・ヴェントリスによって解読されると線文字Bはギリシア語を表す文字であったことが発覚した。


Wikipedia前1200年のカタストロフ地中海東部を席巻した出来事

紀元前1200年頃、環東地中海を席巻する出来事が発生した。現在、「前1200年のカタストロフ(破局とも)」と呼ばれるこの災厄は古代エジプト、西アジア、アナトリア半島、クレタ島、ギリシャ本土を襲った。この災厄は諸説存在しており、未だにその内容については結論を得ていない。この出来事の後、当時、ヒッタイトのみが所有していた鉄器の生産技術が地中海東部の各地や西アジアに広がることにより青銅器時代は終焉を迎える事になり鉄器時代が始まった

地中海の記憶―先史時代と古代
フェルナン・ブローデル著 『地中海の記憶先史時代と古代』 藤原書店、2008年
※Wikipediaフェルナン・ブローデル(Fernand Braudel, 1902 - 1985 )20世紀最大の歴史家のひとり

Wikipedia 暗黒時代 (古代ギリシア)

古代ギリシアにおける紀元前1200年から紀元前700年頃までの間における文字資料に乏しい時代のこと。ミケーネ文化、前古典期(アーカイック期)の間にあたる。また、この時代のうち前1059年から前700年頃は土器に幾何学文様の描かれたことから幾何学文様期と呼ばれる事がある。 また、暗黒時代と呼ぶ事が不適切として初期鉄器時代と呼ばれる事が普及しつつある。


meこの辺りまでとして、また9月からM.ギンブタスの<古ヨーロッパ>の女神に戻ります

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