レトリック?



言葉 言葉 言葉!

トポス topos
ギリシア語で〈場所〉を意味し,アリストテレスや古代修辞学では,議論に関係した事柄や話題を発見すべき場所 (論点,観点) を表した語。またその〈場所〉は,空間的な配置を含むものとして古代記憶術で重視され,言葉やイメージの記憶に役立てられた。そのことは現代でも大きな意味をもつものとしてあらためて見なおされているが,トポスが重要な意味をもってきているのは,そのためだけでない。そのほかに,われわれにとって切実になってきたものとして, 〈存在根拠としての場所〉〈身体的なものとしての場所〉〈象徴的なものとしての場所〉がある。これらはそれぞれ,意識的自我の存立根拠としての共同体,無意識,固有環境,活動する身体によって意味づけられ分節化された場所やテリトリー (縄張),濃密な意味とつよい方向性をもって成立している場所のことを指している。 〈すみかとしての都市〉もここから重要な意味をもつ。
中村 雄二郎


術語集―気になることば岩波新書(1984/09) 術語集〈2〉 岩波新書 (1997/05) ベストセラー

知の領域で使われている代表的な四〇の術語と関連語
アイデンティティ―存在証明/自同律/相補的アイデンティティ
遊び―真面目/演劇/祝祭
アナロギア―アイデンティティ拡散/性自認/免疫
暗黙知―パタン認識/棲み込み/共通感覚
異常―正常/理性・狂気/根源的自然
エロス―タナトス/セックス/ジェンダー
エントロピー―永久機関/ネゲントロピー/開放定常系
仮面―霊力/神話的形象/素顔
記号―フェティシズム/シンボル/隠喩・換喩
狂気―譲渡/疎外/監禁
コスモロジー、パラダイム等、

続編。
「悪」「記憶」「宗教」「哲学」「物語」といった 基本となる用語から、

「アフォーダンス」「オリエンタリズム」
「脳死」「歴史の終わり」など
現在みおとすことのできないテーマまで



パラドックス paradox
一般に正しいと思われていることに反することがらをいう。 〈背理〉〈逆理〉〈逆説〉などともいわれる。語源的には, ギリシア語のpara (超えた,外れた,反した) と doxa (考え,通念) の合成に由来する。一般に正しいと思われていることがらは必ずしも一定したものではなく,社会や時代によって異なる。(略)
 パラドックスにはつぎのような各種のものがある。まず経験的事実に関するもの。たとえば,外部からエネルギーを補給しないで永久運動を行う装置――物理学で第 1 種の永久機関という――のモデルをつくれるとするパラドックス, 〈シュレーディンガーの猫〉のように,微視的なもののふるまいをモデル化したパラドックスがこれである。もっと概念的なパラドックスには,数量,時間空間,運動,その他の抽象的なカテゴリーに関するもの,論理的パラドックスなどがある。時間・空間に関するパラドックスで有名なのはカントの二律背反である。これは,時間を無限の過去から流れてきたものとすればその反対の有限のものとしなければならなくなり,逆に有限なものとすればかえって無限の過去から流れてきたということになるとするものである。空間を無限の広がりと考えたときも同様である。このように,あることを立てるとちょうどその否定が結果するという形のパラドックスを二律背反という。一般に哲学に登場するアポリア (難問) は,抽象的なカテゴリーに関するパラドックスの形で述べられることが多い。たとえば,意志の自由と客観世界の決定性とのかかわりは,カントによって二律背反の形で述べられた。
 しかしパラドックスのなかで理論的に一番重要なのは論理的パラドックスである。これは数学の基礎づけおよび (論理的) 意味論の構成にかかわり,大きな学問分野を形成させたからである意味論的パラドックスの代表的なものはリシャールのパラドックス,ベリーのパラドックス,グレリングのパラドックス,エピメニデスのパラドックスなどである。それは語や文の定義や真偽,何を指すか,いかなる意味をもつかにかかわる。たとえばグレリングのパラドックスは,述語の意味からあらゆる述語を 2 種類に分けたときに生ずるパラドックスで,エピメニデスのパラドックスは,クレタ人エピメニデスが〈自分はうそつきだ〉といったというところから,このことばの真偽を考えたときのパラドックスである。このことばの真偽は,どちらをとってもその反対が帰結されるのである。このパラドックスの解決はタルスキーによってもたらされた (1935) が,そのときの理論が機縁になって (論理的) 意味論という新しい哲学的領域が形成された。集合論のパラドックスは最大の順序数ないし基数を考えるときにブラリ・フォルティおよび G.カントルのパラドックスとして現れた。 B.A.W.ラッセルは,すべての集合を自分自身を元とする第 1 種の集合と自分自身を元としない第 2 種の集合との 2 種類に分けるとき,第 2 種の集合の全体 (これも一つの集合である) をとるとパラドックスが導かれることを見いだした (1901)。つまりこの集合を第 1 種としても第 2 種としてもその反対が帰結されるのである。これをラッセルのパラドックスという。これは順序数や基数の概念も必要としない純粋に論理的なパラドックスで,以後の論理学と数学基礎論の発展に大きな影響を与えた。このパラドックスをラッセルはタイプ理論によって解決したが,公理論的集合論を構成してその中に矛盾が生じないようにして解く方法も案出された。
中村 秀吉
時間のパラドックス 中村 秀吉 著 中公新書1980年01月

記憶術 きおくじゅつ mnemonics

記憶の構成行程を分析解明することによって,その特徴を明らかにし,これを活用して想起作用をより迅速かつ容易に行わせようとするくふう。視聴覚とくに視覚を援用する場合が多い。すでにギリシアのソフィスト時代にヒッピアス Hippias やシモニデス Simヾnid^s が教えていたという。 《ギリシア人の弁論術》は古典的記述として有名である。あらかじめ若干の知悉した場所 (トポス) を脳中に設定し,記憶すべきものをそこに配置しておけば,想起に際して,それらの場所との関連性を手がかりとして,容易に想起作用をすすめることができる,というのがその原理で,場所的記憶術ともいわれる。この著作は,長らくキケロの著作と考えられ,たんに古代記憶術の代表作としてのみならず,記憶術の典拠として権威を保ちつづけた。とくに 14 世紀から 16 世紀にかけてヨーロッパでは記憶術が流行し,さまざまの記憶術書が著された。 ルルスやラウェンナトゥス Ravennatus はその代表である。これらの記憶術探究は,根底において認識論や論理学と不可欠に結びついており,たとえば観念連合や百科全書や普遍数学 mathesis universalis の考え方に多くの影響を与えた。しかしその効用についてはしばしば疑念が提出され,印刷術の普及とともに,近代では急速に衰退した。最近の科学技術の発達,とくに大脳生理学や情報科学の驚嘆すべき革新は,記憶術についても新たな再検討を迫っている。 清水 純一
パラダイム paradigm
もともとはギリシア語の paradeigma に由来し, 〈範例〉を意味した語。近代英語の用法では,とくにラテン語などの名詞や動詞の語型変化を記憶する際の〈代表例〉――例えば定形動詞の変化として“愛する”の amo を用いて, amo,amas,ama,……という人称変化や時制変化,モード変化を記憶する――の意味で用いられることが多かった。しかし 1962 年,T.S.クーンの《科学革命の構造》が発刊され,そのなかで,クーンはこの言葉に新しい特定の意味を与えて使い,この用法が非常な普及を見せたため,それ以降〈パラダイム〉は,欧米でも日本でも (ときに〈範型〉〈範例〉と訳されるが,通常はこの片仮名書きが多用されている),クーンの意味によることになった。
 クーンの〈パラダイム〉は,科学の歴史や構造を説明するために持ち込まれた概念で,ある科学領域の専門的科学者の共同体 scientific community を支配し,その成員たちの間に共有される,(1) ものの見方, (2) 問題の立て方,(3) 問題の解き方,の総体であると定義できよう。クーンの議論に従えば,ある時代ある社会の科学者の共同体 (それが明確に形成されない場合もあり,その場合は,パラダイムも明確な形では存在しないことになる) は,一つのパラダイムに基づいて,自然探究の営みを行う。そこでは,認識論的にも,自然のなかに何を見いだし,そこからどのような問題をひき出すか,という点がそのパラダイムによって暗黙のうちに,あるいは明確な形で規定され,その問題をどのように解き,結果をどのように受けいれさせるかについても,社会制度的にパラダイムによって規定されている。したがって,パラダイムは,認識論的側面と社会学的側面の双方を兼備した概念といえる。
 クーンは,この一つのパラダイム支配下に行われる科学的活動を〈通常科学normal science〉と呼び,それを〈パズル解き〉 (つまり原図――それがパラダイムに相当する――のあるはめ絵パズルを解いていくこと) に比する。パラダイムに危機が訪れ,やがて,新しいパラダイムが生まれて再び〈通常科学〉の営みが始まるまでの間の活動を,クーンは〈異常科学extraordinary science〉と呼ぶ。科学の歴史は,こうして,一貫した蓄積,進歩,発達の歴史というよりは,非連続的ないくつものパラダイムの交代の歴史としてとらえられ,そうしたパラダイムの交代現象をクーンは〈科学革命scientific revolutions〉と呼んだ。
 クーンのパラダイム概念は《科学革命の構造》の初版で提案されたが,上のような定義からくる曖昧さ――例えば科学者の共同体の規模をどの程度にとるかによっては,パラダイムは具体的な一つの狭い理論でもありうるし,あるいは,その時代の〈時代精神〉とでも呼ぶしかない広範なものでもありうることになる――を批判されたため,同書第 2 版では,パラダイムを〈学問母型 disciplinary matrix〉に置き換えて,概念の整理を図ろうとした。しかし 70 年代に入って,おりしも異文化的方法論 ethnomethodology が隆盛となり,単に民族文化の比較においてのみならず,従来は連続的な発達・発展と考えられてきた個人や社会の歴史についても,非連続的な異文化の並列――例えば個人についていえば,発達心理学を排して,子どもと大人とをお互い異文化に属するものとして扱おうとする――と考える発想を後ろ盾として,パラダイムは,さまざまな領域でさまざまに利用され,ひとり歩きを始めている。その意味では,パラダイム論にはレビ・ストロース以降の構造主義的な発想とも呼応するものがあり,クーンの手を離れて,概念的にも実際上も豊かな可能性を開きつつある反面,俗用場面も拡大されているといえよう。
村上


レトリック rhetoric
本来の意味でのレトリックとは,古代ギリシアに始まり, 19 世紀後半まで 2000 年以上,絶えることなくヨーロッパに継承されてきた〈効果的な言語表現の技術〉であった。もともとは文法学,論理学 (弁証術) などと並ぶ重要な基礎教養のひとつの科目であったが,その伝統的な技術学としての形態が消滅した現代では,この用語は,言語表現の (しばしば悪い意味での) 技巧や効果をあいまいにする非専門的なことばとしても用いられることが多い (たとえば, 〈それは単なるレトリックにすぎない……〉などということばづかいとして)。

[名称]

 ギリシア語文化圏に成立して〈レトリケrh^torik^〉と呼ばれたその技術体系は,書きことばよりも話しことばを本質的な言語形態として重視する古代ギリシア的言語観に基づく,弁論家 (レトル rh^tヾr) のための口頭弁論の技術であった。当時のいわゆる古代ギリシア的民主制にふさわしい,集会の場における,おもに評議や裁判のための説得の術である。したがって,古代的な意味でのレトリックは,今日,たいてい〈弁論術〉ないし〈雄弁術〉, 〈演説法〉と訳される。古代の多くの学術と同様に,弁論術もまたギリシア文化圏からローマ文化圏へ移植され,その名称は〈オラトリアoratoria〉と訳された。以後,弁論術を表す用語としては,レトリケ (ギリシア語) とオラトリア (ラテン語) という対訳の同義語がヨーロッパへ伝えられることとなった。近代ヨーロッパ諸語においては――たとえば英語の場合をみるなら――重点が話しことばから書きことばへ移ってのちも,言語表現の技術学という意味では,もっぱらギリシア語系の〈レトリック〉という名称が用いられている。他方,ラテン語系の〈オラトリーoratory〉のほうはやがて演説,雄弁を意味する一般的なことばになった。

[レトリックの体系]

 古代ギリシアにおける理論体系のうちで,まとまったかたちで現在残っているおもなものとしては,前 4 世紀のアリストテレスの《弁論術》と,作者不詳の《アレクサンドロスへの弁論術》がある。また,ローマへ移入されたのちは,前 1 世紀のキケロの《弁論家について》その他何点かの著作や作者不詳の《ヘレンニウスへの弁論術》,そして後 1 世紀のクインティリアヌスの《弁論術教程》などが,古代の理論の代表的なものとして残っている。レトリックは,次々と先行する理論を修正しながら引き継ぎ発展させるというかたちで形成されてきたので,結局,古代ギリシア・ローマ的レトリックの技術体系は,上記のうち最大の《弁論術教程》全 12 巻に集大成されているとみなすことができる。しかもその後,中世から近世まで,重点がしだいに説得よりは魅力的な文章作法へ移っていったとはいえ,ヨーロッパの伝統レトリックは,基本的にはクインティリアヌスの大成した《弁論術教程》の骨組みを (部分的に省略ないし増補しながら) 継承しつづけることになる。その標準体系は,次の五つの技術部門から成り立っていた。   (1) 発想 主題をめぐる問題点を見つけだし,それにふさわしい論証の材料や方向をさがしだす技術。 (2) 配置 発想によって見いだされた内容を,適切な順序に配列する技術。 (3) 修辞 前の 2 段階で整理された思想内容に,効果的な言語表現を与える技術。 (4) 記憶 口頭弁論のために,仕上げられた文章を記憶しておく技術 (記憶術)。 (5) 発表 実際に公衆の前で発表するための,発声,表情,身ぶりなどの技術。  ルネサンス期以降,印刷術の一般化とともに人々のレトリックへの期待がしだいに書きことばへ移行するにつれ,自然に第 4・第 5 部門は省略されるようになった。また,第 1・第 2 部門もむしろ弁証術 (のちの論理学) へ譲られる場合が多くなる。したがって,近代の多くのレトリックの体系は第 3 部門 (狭義の修辞) のみに縮約され,その代りにこの修辞部門をきわめて精巧にした形式が多くなっていった。現代において,レトリックがしばしば〈効果的な文章の技巧〉という狭い意味に理解されがちなのは,この,近世に多くなった第 3 部門中心のレトリック観によるものである。  伝統的な総合レトリックが 5 部門を含むきわめて大きな構成をもつものだったことはとかく忘れられがちだが,また,第 3 部門すなわち狭義の〈修辞〉こそもっともレトリック的な問題領域だということも事実である。この部門には,いわば〈文体論〉 (文体) の原型となる諸問題が含まれる。そして,多様な比喩 (あるいは転義) や〈ことばのあや〉の分類理論が精密に展開されるのもこの部門である。

[レトリックと隣接領域]

 古代レトリックの平均的な定義は〈よく話す技術〉すなわち効果的な話し方,ということであったが,そこには当然,論証的な説得をめざす方向と魅力的な言語表現をめざす方向という,ある意味では異質な,そしてときには対立しかねない目的が内含されていたので,レトリックの性格は,その歴史を通じていつも,一方では弁証術ないし論理学,他方では詩学という両極の間で揺れ動いていた。アリストテレスは,まさに弁証術的・論理学的な諸著作と《詩学》とで両側からはさむようなかたちで《弁論術》を書いた。しかしそれ以前にプラトンは (したがってその著作に登場するソクラテスは) ソフィスト流のレトリックをはげしく非難していたし,実際その後,主流の哲学は近代に至るまで,おおむねレトリックを嫌悪あるいは無視しつづけることになる。なぜなら,絶対的でかつ確実な真理の探求を使命とする哲学からみれば,説得をめざすレトリックはいつも真理を相対視し,確実性の求められない状況においてこそ効果を発揮するものと思われたからである。  また,16 世紀のP.ラムスのように,レトリックのなかから真理と説得にかかわる部門 (とくに第 1・第 2 部門) を切り離してそれを弁証術 (論理学) の領域へ移すことを主張する哲学者もいた。ラムスの影響もあって,ルネサンス以降,レトリックは〈発想〉と〈配置〉部門を切り捨てて哲学からの非難をかわし,前述のように第 3 部門〈修辞〉に重点を置くことによってもっぱら魅力的な言語表現に関心を集中する場合が多くなった。他方,近代の科学的言語研究の精神は,伝統レトリックの規範的・教則的な姿勢を否定し,やがて〈修辞〉に代わるものとして〈文体論〉を成立させることになる。  このような経過のなかにあっても中世から近代まで,レトリックはヨーロッパにおける中等教育のなかで,一般教養の仕上げの役割を果たす重要な科目であった。しかし近代の合理主義的ないし実証主義的な思潮は,実質的な思想内容に比べて言語表現の形式的精製は重要ではない,といういわば内容主義の言語観に基づき,レトリックを旧式な無用の学科とみなす。そして 19 世紀末,ヨーロッパの教育制度からも正式に除外され,伝統的レトリックは消滅した。

[日本への導入]

 すでに 16 世紀末ごろからキリスト教の宣教師を通じて,レトリックという技術学の存在は日本へも伝えられていたようである。しかし,本格的に西洋のレトリック理論が一般に紹介されはじめたのは,明治時代に入ってからと思われる。尾崎行雄《公会演説法》,菊池大麓訳《修辞及美文》,黒岩大 (涙香) 《雄弁美辞法》など,明治 10 年代に始まる理論的なレトリックの紹介・導入ののち,やがて高田早苗,坪内逍遥,島村抱月など多くの人々がレトリックの理論的著作を発表し,明治の末ごろには五十嵐力《新文章講話》という,いわばひとつの完成されたかたちの業績が現れる。しかし大正時代に入ってからは,欧米と歩調を合わせ,短期間の日本のレトリック研究もしだいに消えていった。  なお〈レトリック〉の訳語としては,西周 (にしあまね) の〈文辞学〉,尾崎の〈華文学〉,菊池の〈修辞 (学) 〉,黒岩の〈美辞学〉など,さまざまの例があったが,今日では〈修辞学〉が最も広く用いられている。ただし,明治期に導入された修辞学はたいてい伝統的な総合レトリックではなく,第 3 部門のみを扱う狭義のレトリックであったから,結果的に,日本語としての〈修辞〉は,総合的なレトリックの全領域をさすよりも,その一部門 (第 3 部門) をさすと考えたほうが適当であろう。 [新しいレトリック]   20 世紀前半には,新しい意味でレトリックを再検討しようという試みは世界的にきわめてまれだったし,日本でも波多野完治の諸著作など例外的な少数の研究が発表されたのみであった。しかし 1970 年前後から,レトリックを見直そうという機運が諸国でわずかずつ高まってきた。そこには,レトリックの消滅を招いた内容主義の言語観 (重要なのは内容であって表現形態ではない) が,一見正当にみえながら実は大きな誤解を前提としていたのではないか,という反省があった。すなわち,内容は表現を離れて抽象的に存在しうるものではなく,表現は内容を形づくる本質的な側面である,という事実への再認識が新しいレトリック研究の重要な動機となっている。さらに,言語や記号はコミュニケーションの手段であるばかりではなく,むしろ人間の文化の根拠である,という記号学的な考え方もまた無関係ではない。復活しつつある新しいレトリックは,もはや単なる技巧の問題ではなく,人間の言語・記号的認識の動態の探求をめざしている。 ⇒詩学‖論理学 佐藤 信夫 【日本文学の修辞】  体系的なレトリックの伝統をもたなかった日本文学においても, 〈効果的な言語表現の技巧〉としてのレトリックはきわめて高度な洗練をみた。レトリックの原初のかたちは口承言語における呪的な律文に求められよう。それは,《古事記》に記された,アマテラスとスサノオの〈うけい〉の段の叙述やオオクニヌシの国譲りの詞章などを通してうかがえるものであり,これらはやがて形式的に整えられて祝詞(のりと) として完成される。 《古事記》には〈雉 (きぎし) の頓使 (ひたつかい) 〉〈海人 (あま) や,己が物によりて泣く〉などといった〈ことわざ〉もあり,文字どおり〈言 (こと) の技 (わざ) 〉としての警句風の技巧がみられる。他方,詩的な機能をもつレトリックには口承の過程で定着した比喩句としての枕詞がある。これは踊りや所作と結びついた主として五音,七音から成る韻律のなかで発せられたことばで,意味的にあいまいなところからかえって呪的ともいえる力によって詩的な映像とイメージを喚起したのである。この枕詞を創作歌にふさわしく作り変えて自在に駆使したのが柿本人麻呂であった。人麻呂は〈連続声調〉といわれるリズムにのせて, 〈大君は神にしませば〉といった一種の誇張法や〈反復〉〈対句〉などの形式美を追求し,歌を踊りや所作から分離して詩的に完成させたのである。修辞的技巧を凝らした祈年祭の祝詞や人麻呂の長歌などには漢文学のレトリックの影響もみられる。  本来,歌の基本的なレトリックは〈物に寄せて思いを陳べる〉といった,景物で〈心〉を比喩するところにあり,その効果的な表現のためにさまざまな技法が用いられた。とくに《古今集》以後,懸詞(かけことば), 縁語,物名 (もののな),折句(おりく),序詞, 本歌取りなどの技法がいちじるしく発達し,さらに歌語 (詩語),歌枕が成立して特定の地名とそこの景物を詠み,それと縁のあることばを重ねて一首を作る技巧が流行した。こうして一つ一つの歌語に思い入れされた〈情〉やイメージを連ねてことばによる美的世界を創造する和歌の伝統ができ上がる。 《白氏文集》や三代集や《源氏物語》の文章から辞句や意味を引く〈引喩〉によって,古典を媒介とした虚構の美に陶酔したのである。とりわけこうした技巧の極致ともいうべき藤原定家の歌は〈風ふけて〉〈心の奥〉〈春の古里〉といった新奇な詞づかいと技法によってことばに魔性が加わり達磨歌 (だるまうた)と称された。  一方,散文においては,文字のなかった和語を漢字で表記するというそもそもの出発点からして,表現上のくふうを必要とした。 《古事記》は〈語り〉のことばを,その口調を生かしたまま漢字で表現するという課題を担っていたのである。その意味で太安麻呂によってくふうされた〈音訓交用〉の表記法は,単に文体の問題としてのみならず,ジャンルや様式と不可分に結合されたレトリックの方法としても再評価されなくてはならない。この後,大陸文化の強い影響下で,官人貴族である知識人たちは漢詩文を自在に創作するようになり,それらの成果はいくつかの勅斤詩集やとくに 11 世紀中ごろに成立した《本朝文粋》に収められている。後者の斤者であり,平安中期の代表的な知識人である藤原明衡はわいせつな戯文〈鉄故伝〉の作者に比定されている。さらに彼は《新猿楽記》において〈猿楽〉という烏滸 (おこ) な芸能と古代末期の社会層を,四六譜儷体系の装飾的な美文の中に多様な俗語を取り込んだ記録体的な変体漢文によって表現した。古代から中世にかけての躍動的な現実と新しい経験を的確に表現する,こうした簡潔で生々とした漢文的レトリックは和語の表現にも新しい技法をもたらした。時代はやや前後するが,李義山の雑纂や十列形式の発想によった《枕草子》は,女流仮名文の情に流された文体とは正反対に,簡潔で技巧を凝らした文体で描かれ,また《史記》をはじめ漢詩,故事をふまえた数多くの修辞によって,仮名文と和歌と漢詩文的世界が混然一体となった作品が《源氏物語》であった。  和文脈のレトリックは〈語り〉の形式を媒介としながら《平家物語》に受け継がれ,やがて謡曲において集大成される。 謡曲は物語,和歌,民間伝承,歌論書に記されたさまざまな説話などを典拠として,歌謡の声調,律文,散文さらに仏教世界で独自の発達をとげたレトリックである問答形式を巧みに組み合わせて修辞の粋を尽くしたのである。しかし,謡曲による修辞の完成は同時に,中世の和文脈が,伝統的な美意識や無常感に支配される詠嘆的な抒情に流されて,現実を表現する方法を失いはじめたことをも意味していたといえよう。こうして装飾過剰な和歌的〈雅語〉ではとらえきれない俗世間のありさまを,それに即して表現するためのレトリックが必要となったが,近世のいわゆる元禄文学は新しいレトリックの画期をなすものであった。 〈松のことは松に習へ〉という芭蕉のことばは新しいレトリックへの強烈な方法意識に基づくものであり,瞬間的な〈停止〉や〈屈折〉をばねとしたリズムによって旧来の七五調の語りを脱した近松門左衛門の浄瑠璃の技法や, 〈飛躍〉と〈断絶〉を内包するダイナミックな俳諧的な散文によって俗の世界に表現形式を与えた西鶴のレトリックが生み出されたのである。さらに天明期前後の江戸中期になると,世態人情を世俗の内側から表現する黄表紙,洒落本,狂歌,川柳などの戯作文学が出現する。これらに共通する技法は古典故事の〈もじり〉 (パロディ) であり,硬直化した権威や秩序の滑稽化と茶化しであった。さらに見立てや地口や語呂合せなどのあらゆる表現技巧をこなして軽妙で奇抜な効果を意図したのである。とくに〈うがち〉と呼ばれるレトリックは平凡さのなかに隠されている真実を発見したり,ありふれたことがらを斬新な角度から再発見していく方法であった。こうした意味において,すぐれた戯作文学には,俗に徹することによって逆に内側から凡俗を否定するレトリカルな精神がみられたのである。 武藤 武美 【中国文学の修辞】  中国に初めてヨーロッパでいうレトリックを紹介したのは,明代に中国に来たイタリア人の宣教師アレーニGiulio Aleni,中国名を艾儒略と名のる人物による《西学凡》 (1623 成立) であるが,そこにおいてレトリックを〈文科〉と訳して解説した。しかしながら話すように書くというヨーロッパのレトリックの考え方は, 1917 年に始まった〈文学革命〉のよびかけがなされるまでは,中国には定着しなかった。 18 年に魯迅の《狂人日記》が出現して以降,中国の白話文学 (口語文学) が盛んになるのであるが,それまでの中国の古典文学は,話すことと書くこととの間に大きな距離があり,話しことばとは別の次元において,人工的に凝縮した,含蓄ある文にしたてるということに,格別の苦心がはらわれ続けてきた。そして,その方向において中国独自の修辞論がいろいろと展開されていった。  中国の修辞論の最初のものとしては,漢代の《毛詩》の序があり,詩における比喩のあり方として〈賦〉〈比〉〈興〉ということを説く。続いては,魏の曹丕 (そうひ) (文帝) の《典論》のなかの〈論文〉や,晋の陸機の〈文賦〉 (ともに《文選》に収められている) などが現れて,文学論にあわせて修辞の論に及ぶ。曹丕は,文学においてたいせつなものは〈気〉であると説き,陸機は,〈一篇の警策〉になることばをくふうすることがたいせつだと説いた。六朝文学を背景にして,修辞論を集大成したものが, 6 世紀に作られた梁の劉詠(りゆうきよう) の《文心雕竜 (ちようりよう) 》である。 《文心雕竜》は 50 篇から成るが,その後半の神思篇から以降の諸篇において,さまざまの角度から修辞論を展開し,六朝時代の修辞の考え方を集大成する。その後は,世界において最も完備した詩形式である律詩の誕生にともない,詩のあり方についての修辞論が盛んになるとともに,中唐の韓灸,柳宗元を中心にして,いわゆる〈古文〉の修辞論がいろいろと示された。これらを通して,中国の古典文学の修辞論が確立されていくのである。 鈴木 修次

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