『藤村詩集』序 ──早春記念──
遂に新しき詩歌の時は來りぬ。
そはうつくしき曙のごとくなりき。うらわかき想像は長き眠りより覚めて、民俗の言葉を飾れり。
傳説はふたゝびよみがへりぬ。自然はふたゝび新しき色を帯びぬ。
明光はまのあたりなる生と死とを照せり、過去の壮大と衰頽とを照せり。
新しきうたびとの群の多くは、たゞ穆實(ぼくじつ)なる青年なりき。その藝術は幼稚なりき、不完全なりき。されどまた偽りも飾りもなかりき。青春のいのちはかれらの口脣(くちびる)にあふれ、感激の涙はかれらの頬をつたひしなり。こゝろみに思へ、清新横溢なる思潮は幾多の青年をして殆ど寝食を忘れしめたるを。また思へ、近代の悲哀と煩悶とは幾多の青年をして狂せしめたるを。われも拙(つたな)き身を忘れて、この新しきうたびとの聲に和しぬ。
詩歌は静かなるところにて思ひ起したる感動なりとかや。げにわが歌ぞおぞき苦闘の告白なる。
誰か舊き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。
生命は力なり。力は聲なり。聲は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。
なげきと、わづらひとは、わが歌に殘りぬ。思へば、言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき。いさゝかなる活動に勵まされて、われも身と心とを救ひしなり。
藝術はわが願ひなり。されどわれは藝術を輕く見たりき。むしろわれは藝術を第二の人生と見たりき。また第二の自然と見たりき。
あゝ詩歌はわれにとりて自ら責むるの鞭にてありき。わが若き胸は溢れて、花も香もなき根無草四つの巻(若菜集、一葉舟、夏草、落梅集)とはなれり。われは今、青春の記念として、かるおもひでの歌ぐさかきあつめ、友とする人々のまへに捧げむとはするなり。
──明治三十七年(1904)九月──
昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪 (あくせく)
明日をのみ思ひわづらふ
いくたびか榮枯の夢の
消え殘る谷に下 (くだ)りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水巻き歸る
嗚呼 (あゝ)古城なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
過 (いに)し世を静かに思へ
百年(もゝとせ)もきのふのごとし
千曲川柳霞みて
春淺く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて
この岸に愁ひを繋ぐ
吾胸の底のこゝには
言ひがたき秘密(ひめごと)住めり
身をあげて活ける牲(にへ)とは
君ならで誰かしらまし
もしやわれ鳥にありせば
君の住む窓に飛びかひ
羽(は)を振りて昼は終日(ひねもす)
深き音(ね)に鳴かましものを
まだあげ初(そ)めし 前髪の
by島崎藤村(1872~1943)
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Last modified: 01/20/2014 12:41:07