2022アドベントカレンダー

20221223

海外の兎絵図

昨日は日本の兎図絵の総めくりであったが、本日は海外の兎図絵を。
『十二支動物の話』(井本英一) の兎の話も、最終章まで終えました。

兎の穴

 兎の穴(閉じ込められない)

me
「兎の話」の最終章「兎の穴」では、隔離飼育が困難な理由や、それゆえの小さな兎島に閉じ込める話があったが、YouTubeに、すさまじいオーストラリアの兎の数、兎との150年戦争の話があって驚いた。


兎の繁殖力の原因図解あり。
(雌は子宮を2つ持ち、妊娠期間は30日)
'スーパー野兎'の数は現在約2億匹。

 兎の穴の中?

meルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865)は兎の穴に落ちたと。
持っている角川文庫の表紙からはそういうイメージはないが、 うさぎの穴をまっさかさまです。
Open Shelf 山形浩生訳)

アナウサギの飼育


ゲスナー『動物誌』野兎1669年版
(『図説動物シンボル辞典』より引用)


ゲスナー『動物誌』

シンボルとしての「兎」を考える場合、ノウサギ類と小型のアナウサギ類は区別されないことが多い。
ただし、両者は生態その他かなり異なる。
アナウサギの家畜化はローマ時代に始まる。いわゆる「飼いウサギ」は近世以降に、毛皮用、食用、愛玩用などの用途で広まった。(『図説動物シンボル辞典』)

コンラート・ゲスナー(Conrad Gesner,1516‐1565)16世紀
スイスの博物学者:書誌学者
著書『動物誌』全5巻 (1551-1558) は、近代動物学の先駆け

me『動物誌』というと、

アリストテレスは『動物誌』で動物の性格の相違に触れ、鹿や兎を思慮深く臆病なものとし、蛇を陰険で卑屈なもの、犬を健気で情が深く深く人に媚びるもの、孔雀を嫉妬深く派手好みとし、そしてライオンを自由で勇敢で高貴なものと述べている。(『絵画の中の動物たち 神話・象徴・寓話』利倉隆(美術出版社2003)p158

13世紀

かって、ストラスブ―ル大聖堂の内陣を装飾する13世紀ごろの彫刻には、動物たちの奇天烈な葬列の場面があった。12世紀後半に登場する『狐物語」の登場人物に合致する。
狐のルナールの他、熊、狼、鹿、山猫のほか、兎のコワールも登場。宗教改革時代に、プロテスタントがこれをカトリックのミサに対する風刺と受け取り笑いの種としたため、この愉快な彫刻は破壊されてしまった。
(『絵画の中の動物たち』利倉隆p062)

狐物語(wikipedia)(仏:Roman de Renart)は、12世紀後半にフランスで生まれた物語群。

動物譚の挿し絵(14世紀)

Syrischer Maler von 1354 001
カリーラとディムナ』[野兎と象](1354)
Bodleian Library、Oxford

(推定:シリア起原の写本)
象たちに国土を荒らされた野兎が機知を働かせ、象の王に自分たちの王は月だと主張して「月の泉」に導き、鼻で水をすくってごらんとすすめ、水面の月が揺れ動くのを見た象は月=野兎たちの王の怒りを悟って退散したという話。
『絵画の中の動物たち』利倉隆 p065

15世紀

聖人伝(キリスト教)


ピサネロ「『聖エウスタキウスの幻視」(部分)右下
(1536‐1439)
National Gallery(London)

ピサネロ(Pisanello, 1395年頃 - 1455年頃)は、国際ゴシック様式を代表する画家の一人であり、記念メダルの作家(wikipedia
鹿狩りにまつわる聖人伝: 狩猟中に牡鹿の角の間にキリストの磔刑像を見て、エウスタキウスはキリスト教に改宗した。
(『黄金伝説』(『レゲンダ・オウレア』)第154章 1267頃 wikipedia

mewikipediaで、作品頁があるのは良いが、何故か作者マンテーニャとある(-_-;) 20221221閲覧


「最後にこの商品を購入したのは2004/12/13です。」(byAmazon )

16世紀


デューラー Albrecht Dürer アダムとエヴァ
(銅版画 1504)


鼠と対峙する猫の後ろに後ろ向きの兎

デューラーの理想的な人体比例美の探求の成果。
宗教画に描き込まれた動物がしばしば象徴的な意味を担っていることを示す一例でもある。
さらにこの図は中世の生理学ともいえる四気質や四っつの体液とも関係づけられる。
胆汁質といわれる猫は残忍、その背後の兎は多血質で多淫、その奥に見える鹿は憂鬱質で陰気、右端の牡牛は鈍重な性質というように。
人間の性質は本来調和のとれた完全なものであったが、原罪以後そのバランスを失い(ここにいる動物たちのように)悪徳に染まったのだという。
『絵画の中の動物たち』利倉隆 p024

デューラーの影響を受けたルーカス・クラナッハ 「アダムとエヴァ」(1526)にはさらに多くの動物がいるとあるが、兎はいない。
続いて、 コルネリス・ファン・ハールレム 「人間の堕落」 (1592)だが、やはり兎はいないが、二人の足の間の猿と猫には驚いた。

Cornelis van Haarlem - De zondeval


キリスト教では猿も猫も悪

デュ―ラー


A・デュ―ラー画「ノウサギ」
(1502 ウィーン アルベルティ―ナ美術館)

ヤン・ウィルデンス(17世紀)

WILDENS Winter Landscape
Hunter in a Winter Landscape with Dogs
ヤン・ウィルデンス画「狩人のいる風景」
(1624 ドレスデン美術館)

ヤン・ウィルデンス Jan Wildens(1586– 1653)は、風景画を専門とするフランドルの画家兼製図家(wikipedia

ヒエロニムス・ボス(15世紀)

The Garden of Earthly Delights (lower right fragment)

Bosch, Hieronymus - The Garden of Earthly Delights, right panel - Detail- Rabbit
音楽地獄Bosch, Hieronymus
- The Garden of Earthly Delights, right panel
- Detail- Rabbit1490年と1500年の間
プラド美術館蔵

ギュスタヴ・ドレ(19世紀)


ラ・フォンテーヌの「寓話」の挿絵「兎と蛙」(1867)

メディチ・イソップ(15世紀)


15世紀末 写本 
The New York Public Library ,Spencer Collection

『兎と蛙」の話。日頃人間や他の動物に脅かされている兎たちが、一生震えて過ごすよりはいっそ身投げしようと相談して沼にやってきたところ、その騒ぎに蛙たちが水に飛び込んで逃げた。不幸なものもさらに不幸なものから慰めを得るという教訓。
『絵画の中の動物たち 』利倉隆 p055

臆病な兎がその姿に驚いて逃げ惑う蛙の様子を見て、自分よりもさらに臆病な生き物がいることを知る。
『絵画の中の動物たち』利倉隆 p077

イソップ寓話 紀元前6世紀(wikipedia)
ドレ(Paul Gustave Doré, 1832 - 1883):仏蘭西のイラストレーター、画家(版画家、挿絵画家、彫刻家) (wikipedia
ラ・フォンテーヌ(Jean de la Fontaine, 1621 - 1695):仏蘭西の詩人。 イソップ寓話を基にした寓話詩(Fables、1668)で知られる。(wikipedia

meおまけです。荒又宏さんが、ということで買ってしまった『秘密の動物誌』(筑摩書房1991)、空想の珍獣の写真紹介。空飛ぶ象、多足蛇、水面直立魚・・「非存在の存在証明」、と言われても、いや、買う必要なしであったが、 Amazonでこの本を買ったのは2015年4月12日ですと出てきます


表紙が多足蛇(-_-;)

徒然草の名句(232段)

すべて、人は、無智・無能なるべき物なり。或る人の子の、見様など悪しからぬが、父の前にて、人と物言ふとて、史書の文(もん)を引きたりし、賢(さか)しくは聞こえしかども、尊者の前にては、然(さ)らずとも、と覚えしなり。また、或る人の許にて、琵琶法師の物語を聞かんとて、琵琶を召し寄せたるに、柱(ちゅう)の一つ落ちたりしかば、「作りて、付けよ」と言ふに、ある男の中に、悪しからずと見ゆるが、【古き柄杓の柄ありや」など言ふを見れば、爪を生(お)ほしたり。琵琶など弾くにこそ。盲法師(めくらほうし)の琵琶、その沙汰にも及ばぬことなり。道に心得たる由にやと、片腹(かたはら)痛しかりき。「柄杓の柄は、「檜物木(ひものぎ)」とかや言ひて、よからぬ物に」とぞ、或る人、仰せられし。
若き人は、少しの事も、よく見え、悪(わろ)く見ゆるなり。

meこの段が下の段の意味を明らかにしたと、島内先生。 

徒然草の名句(98段)

尊き聖(ひじり)の言ひ置きける事を書き付けて、『一言芳談』とかや、名づけたる草子を見侍りしに、心に合ひて覚えし事ども。
一 しや、せまし、せずや、あらましと思ふ事は、大様(おほやう)は、せぬはよきなり。
一 後世(ごせ)を思はん者は、糂汰瓶(じんたがめ)一つも持つまじきことなり。持経・本尊に至るまで、良き物を持つ、由(よし)なき事なり。
一 遁世者は、無きに事書欠けぬ様(やう)を計ひて過ぐる、最上の様(やう)に、有るなり。
一 上臈は下臈に成り、智者は愚者に成り、徳人は貧に成り、能ある人は無能に成るべきなり。
一 仏道を願ふといふは、別の事なし。暇ある身になりて、世の事を心にか掛けぬを、第一の道とす。 この外も有りし事ども、覚えず

では、また~~~

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