![]() |
![]() |
|
![]() |
アドベントカレンダー2006 23 鏡 かがみ 今年をかんがみるページ、二日目です。 |
![]() |
![]() |
![]() |
化粧用具としてよりも先に祭祀の道具としての性格を帯びる 鏡の語源はカゲミ(影見)、 あるいはカカメ(カカとは蛇の古語。つまり蛇の目)であると言われている。 |
虚栄の象徴として、享楽とセイレーンのアトリビュートであるが、 自己省察を表すものとして叡智と真実という 2つの美徳のアドリビュートでもある。
|
鏡は映した人の魂や生命力をとどめておくことができるとされた。 悪魔の化身は鏡に映った自分の姿を見ることに耐えられないという。 西洋の図像では、両義的な意味合いを持つ。 人間を破滅させるセイレーン(水の精)が手にしており、 また、「快楽・虚栄」の擬人像の持物も鏡である。 一方で 己れを知るという美徳の擬人像である「真実と賢明」の持物である。 また聖母マリアの象徴でもあるが、これは処女懐胎の折に神が マリアの胎内に自らの似姿であるイエス・キリストを「映し出し」たからである。 (月もまた太陽の光を反射することからマリアの象徴とされている)
|
=== 引用開始 === 「かがみ」の語源とされる「影見」、 自己認識につながる「可我見」、 相手の姿・面影を見るための「形見」、 規範や手本を意味する「鑑」。 mirror(鏡)は、 奇跡、不思議(miracle)という意味のラテン語に密接に関連している === 引用終了 === |
![]() 西洋シンボル辞典では鏡の項にはシモン・ヴーエの 「マルタとマリア」の図が載っていますが、(^_^;;正直意味不明です。 (1620年ごろの作、ウィーン美術史美術館蔵) このマルタとマリアというのは、 (マリアは聖母ではない) |
聖書:ルカによる福音書 10章38−42節(新共同訳) マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 |
なんだか難しい言葉ですね。?? 「二者択一の言葉でもなく」だって? …http://www.enjoy.ne.jp/~asaasa6/sekkyo/sekkyo030126.htm ご馳走、たべさせること、 もてなしは女の大事な仕事。 しかし、やっぱりマルタのすることをちょっと蔑んでいると、とっていいのでしょうか? そういうことでなく、とにかく、「あっちは遊んでいる」と文句を言ったのがいかん遺憾? なにより話を聞くことの大事さをいいたい? 人はパンのみにて生きるにあらず…??? しかし??? とにかく、ここで、「デスパレートな妻たち」のブリー・バン・デ・カンプを思い出すのです。 感謝されないブリー。 完璧なる家事ワーク、料理、テーブルセッティング、医者の妻、クリスチャン、そしてアクセサリーは真珠の首飾り。そして、完璧でない子どもたち、離婚を言い出す夫。 ![]() この第一話の登場シーンを見たとき、周囲の家族の精彩のないのに驚いた。 人の生き生きとした感情を奪うロボットのような人間にみえてしまった。このときは。 ちなみにこのドラマの 紹介:by発売元 ブエナ ビスタ インターナショナル ジャパン
笑いつつ考えさせる、良質な娯楽番組。
「手に持っているけれど食べていない。」 (オフィシャルブックより)
|
絵に戻ると、「マルタとマリア」の絵は、 あの フェルメールも描いているという。 |
「鏡の中」っていうのも、象徴的意味がありますね…
今日のプレゼント
|
2011年3月2日→鏡再考 マリアの図像