聖母


GothicRayonnantRose003
パリ、ノートルダム大聖堂 バラ窓の中央の聖母子

聖母マリア信仰

西洋の中世というのは、当然、キリスト教の世界だと思っていたのだが、酒井健の『ゴシックとは何か』によれば、11世紀の半ば、フランスの総人口の90%は農民で、彼らのほとんどが非キリスト教徒であったという 。
以下抜き書きで、聖母マリア信仰について見てみたい。

「農村は異教の温床であり、たとえキリスト教に帰依していても、それは表面上で、生活のなかで彼らは異教の信仰と風習をしっかり維持していた」
異教徒を意味するフランス語Païan(パイアン)が、村人を意味するラテン語paganus(パガヌス )から由来していることからもうかがえる。
フランスだけでなく他の西欧の地域でも、農民という異教徒が人口の多数を占めていたのであって、それゆえ、ヨーロッパのキリスト教化はかなり時間がかかった。

16世紀初めにおいても、それはまだ不完全であった・・(アニェス・ジェラ―ル「ヨーロッパ中世社会史事典」池田健二訳)。

異教といっても様々であったが、共通しているのは、どの異教も自然のなかに神的存在を見出していた。(p030)

※異教徒(weblio):pagan(a person who follows a polytheistic or pre-Christian religion (not a Christian or Muslim or Jew))

Wikipediaによればヘブライ語のpaganini (森の住人)にも由来する。一神教の信者によって自分たちの宗教を信じない者を指す軽蔑語pagan :今では「保守的な信条と価値を保つ田舎の人々」というより、[前キリスト教的シャーマニズムを概念化した用語]として確立しているとある。

我々の女主人

また、今まで、 ヨーロッパとはつまりはキリスト教の世界であり、それを象徴するのが大聖堂であると、理解していたのだが、それほど単純な話でもないようだ。

大聖堂が建てられた12世紀13世紀は、三圃性農法の普及と農器具の改善により、農村では労働力に余剰が生じ、農村を捨てて都市に移り住む者、森林を切り開いて農耕地を広げる者という両方の動きが顕著に見みられた時代であった。(p034)

ゴシック大聖堂はこのような自然の消滅、人口の移動という大きな歴史の変化を背景に、都市のなか建てられていった。(p035)

聖母信仰とゴシック大聖堂の結びつきは、都市化現象という視点から見ると解き明かせる。(p036)

都市化現象により、「新たな共生の原理、都市の誰しもが救われる宗教原理が求められ、そのような都市の民衆の要求にのって聖母マリア信仰は12-13世紀のフランスに一気に広まった」(p039)という。

ゴシック様式の大聖堂は、ノートル・ダムという呼称と、つまり聖母マリアの民間信仰と直接結び付いている。

ノートル・ダム(Notre-Dame)とはイエスの母マリアを表すフランス語だ。これに対応する英語はアワー・レディー(Our Lady)である。いずれも「婦人」「女主人」を表す丁寧語の前に「我々の」という所有格形容詞がつけららている、これは民衆の間でマリアが慕われていたことを証している。(p035)

Notre-Dame-Paris-eastside
パリ、ノートルダム大聖堂 東側の聖母子


マリア信仰の火付け役

マリア信仰の火付け役は、東方起源の信仰で、ギリシア帰りの修道士によってイギリスに持ち込まれたのちノルマンディー地方、リヨン、そしてパリに伝播していった[聖アンナによる聖母マリアの無原罪懐胎] の信仰 であるという・・それは

マリアの母アンナが接吻だけでマリアを身ごもったという信仰で、この信仰がフランスで祝日(12月8日)として祝われるようになったのは、1130年、ちょうどノートル・ダムなる言葉が使われ出した頃 である(p039)

ここで、地母神崇拝の話になる。
「母なるものへの信仰は、異教信仰として、それぞれの土地に根差した地母神崇拝というかたちで、極めてる古くから存在していた」(p040)

小アジアのフリギア(今のトルコのあたり)の地母神キュベレは古代ギリシアを通って前6世紀にフランスのマルセイユに伝来し、
古代エジプトの大地母神イシスもローマ帝国の領域内で広く信仰されていた。
また古代ギリシアではデメテルが、
ゲルマンの神話ではペルヒタホレフレイア
ケルトの信仰ではアナ(あるいはダナ)が信仰されていた。

多種多様のローカルな地母神崇拝を普遍的な次元に高め、
普遍的なレヴェルで地母神崇拝を実現する必要があった(p041)
聖母マリアはその普遍性を備えていた。ただし、新約聖書正典のなかの聖母マリアではいけなかった。なぜなら、正典のマリアは<神の母>(テオトコス=イエスの母」であっても、天上の父なる神への信仰より下位に置かれていたからである。 天上の父なる神は自然界を超えて存する。地母神は母なる大地の神、自然神である。

母性を強く肯定しそのことで自然との結びつきを保持しようとするならば、父権的・超自然的信仰の支配する正典の外の伝承に依拠せねばならなかった。
(p041)


https://www.notredamedeparis.fr/
パリ、ノートルダム大聖堂 西正面左扉口
聖アンナのポルタイユ(photo by Benh Lieu Song )

戴冠したマリアと彼女に抱かれる幼児イエスの聖母子像
下段:聖母マリアの懐胎のきっかけになった
聖アンナと夫ヨアヒムのエルサレム金門での再会


https://www.notredamedeparis.fr/
パリ、ノートルダム大聖堂 西正面右扉口
聖母マリアのポルタイユ(photo by Benh Lieu Song )

「聖母マリアの死・被昇天・戴冠」 (新約聖書外典「ヤコブ原福音書」に出自する)

以上の左右の扉の外の、中央の扉は「キリスト最後の審判のポルタイユ」
ポルタイユとは「正面」を意味するフランス語


マリア Mary


柳 宗玄(平凡社世界大百科事典)Wikipedia著書は下へ

マリア Mary

語源はヘブライ語 miry´m またはアラム語の mary´m で, ふとった女〉 (すなわち〈美女〉) の意とされる
マリアの晩年の図像には,〈キリストの昇天〉〈聖霊降臨〉に登場するほか,マリアを主役とする図像に〈聖母の死〉 (〈聖母の眠り Dormitio〉), 〈埋葬〉〈被昇天〉〈聖母の戴冠 (たいかん) 〉と続く。中でも東方では〈聖母の死 (眠り) 〉が,西方では〈聖母の戴冠〉 (13 世紀以降) が,それぞれキリスト伝の主要な場面と並ぶ重要な意味をもった。
以上のさまざまの聖母図像は,各時代や各地域においてそれぞれ形式の変化を示し,またその様式も表現された宗教感情も多様であったことはいうまでもない。
造形表現におけるマリアの最も一般的な持物はバラや白ユリ,王冠などであるが,時代・地域により変化が多い。
なおマリアに関した祝日は数多く,そのおもなものに,聖告 3 月 25 日,聖母被昇天 8 月 15 日,マリアの誕生 9 月 8 日,神殿への奉献 11 月 12 日,懐胎 12 月 8 日がある。

マリアが太った女(=美しい女)を意味すると知って、笑ったものです・・

テオトコス Theotokos[ギリシア]

〈神を生んだ者〉〈神の母〉を意味する聖母マリアの尊称。
日本の正教会では〈生神女 (しようしんじよ)〉と訳す。
3 世紀のギリシア教父オリゲネスに用例が見え,東方では早くから定着していた。
5 世紀前半のコンスタンティノープル主教ネストリウスが,この尊称はキリストの完全な人性の教義を危うくするとして反対したため,大問題となった 。
ネストリウスは代りに〈クリストトコスChristotokos〉 (〈キリストの母〉の意) を提案したが,一般には受けいれられなかった。西方教会ではこの尊称はふつうは用いられない。
森安 達也(平凡社世界大百科事典)スラヴ文化史・東方キリスト教史
(52歳で亡くなられたよし ご著書)

WEB 検索
マリアの称号

Wikipedia 聖母マリア
Wikipedia マリアの称号 神の母
Dormitio Virginis・・・「聖母の眠り Dormitio」
Dormitio の検索
https://www.musan.it/musei/
https://www.cattoliciromani.com/forum

https://www.aigtokyo.or.jp/seminar/sem_past10.html
望月 一史さん
1. 聖母像の基本形式、玉座の聖母子、慈愛の聖母、敬虔の聖母など
2. 謙譲の聖母、慈悲の聖母、悲しみの聖母、薔薇園の聖母など
3. 柘榴の聖母、出産の聖母、授乳の聖母、鶸の聖母、ロザリオの聖母など


シュテファン・ロッホナー(Stefan Lochner) 薔薇垣の聖母 (1450年頃。ケルン、ヴァルラーフ・リヒャルツ博物館所蔵)


WEB 検索
マリアの像

Vierge ouvrante

Opening Virgin (Vierge Ouvrante)


いやぁ。これは改めてすごい・・
https://www.petit-patrimoine.com/
https://www.pinterest.jp/philippefavre0/vierge-ouvrante/
https://www.musee-moyenage.fr/collection/oeuvre/vierge-ouvrante.html

https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/pdf
「子宮をひらくマリア」
12 世紀後半あるいは13 世紀初頭から16 世紀半ばにかけてヨーロッパ各地で身体の一部に切れ込みを持つ聖母像が制作された。
最古の作品と考えられてきたブーボンの像(ウオルターズ・アート・ギャラリー蔵)

Virgin of Anost



Vierge ouvrant

http://tessahunkin.com/gVierge_ouvrante.html

14th century, Anost Burgundy. The figure of the virgin holding the Christ child is hinged and opens to reveal the seated figure of God the father.

初めて実物を間近に見ました。
photo byM 20190614 オータン ロラン美術館にて ・・


課題:穂麦の模様の服を着ているマリアの像
穂麦のマリアについてはこちらですが、この模様の服を着ているマリアの像があるかどうか、調べてみましたが、ありませんでした。
つまり、母になってしまってはだめなんですよね・・・
聖母マリアの美術
諸川 春樹/ 利倉 隆/著 美術出版社1998年08月刊
[ 西洋絵画史に現れた究極の女性像・聖母マリア。絵画に描かれたマリア伝を「受胎告知」をはじめとする28の場面に探り、巨匠たちの描いた多様な「聖母子」にマリア像の変遷をたどる。]
西洋絵画史入門 」ほか。

課題:穂麦の模様の服を着ているマリアの像があるかどうか
絵解き中世のヨーロッパ
フランソワ・イシェ/著  蔵持不三也Wikipedia/訳 原書房 2003年12月刊
「 中世ヨーロッパの社会を形作っていた聖職者、戦士(騎士=貴族)、庶民(農民・職人・商人)の三階層の姿と様々な出来事を絵画から読み解き、精緻なカラー図版とともに生き生きとした形で、具体的に浮き彫りにする。」 この三階層というのを 別の言葉でやってくれているのがいいですね。それは、 戦う人、祈る人、働く人・・でした 著者は歴史家なので ばらばらなものを時系列で整理してくれる。 この場合 修道院の起こりなど・・ 5世紀の、孤独というギリシア語「モナコス」を語源とする修道院制度(=モナシスム)が 弧でも独でもない、「共に住む」修道生活であり
12世紀の クリニュー派修道院(黒衣修道士)とシトー派修道院(白衣修道士)の対立と非難合戦が 世論の不信を呼び 13世紀に、使徒的生活を「まねぶ」都市的托鉢修道会が盛んになったものの 寄進による富と清貧の理念は解決困難なパラドックスへむかう・・・
異端というチュルリュパンというフランス語は現在は「道化師」を意味するという・・というような 中世の人が「中世」ということばをつくったという・・ ぺトラルカ(1304-74)とその周辺の人文学者の語という
・・「中世は存在しない」イマジネールとしてのみある、という話・・面白いが、お目あての図像はなし。

課題:穂麦の模様の服を着ているマリアの像があるかどうか
服飾の中世
徳井 淑子 著 勁草書房 (1995/02)刊
「マント、手袋、袖、黄・緑・青の衣服、紋様、素材が社会・人間関係にシンボリックな意味をもった西欧中世。その心性を文学、絵画に探り、十九世紀ロマン派の異装、中世趣味にも迫る。」
キリストを抱いていない聖母の像として、「慈愛の聖母像」というものがある。これはマントに人をくるむもの。
しかし・・(もちろん?)麦の模様ではない。

まだあるかも・・そのうち続きます・・・2011-02-07

穂麦のマリア
無原罪のマリア
マリアと鏡(『異教徒ローマ人に語る聖書』)
聖母の記号とシンボル

上に戻る

▲TOPへ戻る